'15/2/24 (Tue)
81歳まで働き、その後10年は遊びまくり、91歳で自宅でポックリ逝くのがぼくの夢だ。
もし、92歳になってしまったら、死んだつもりになってもう一度働こうと思っている。
そんな人生の夢を持っているのだが、今年で人生の半分が過ぎようとしている。
つまり、今年は人生の折り返し地点だ。
ぼくは独身だ。
人生の半分を独身で過ごした。
なので、ぼくなりに独身論なるものをこの時点で書いてみようかと思った。
独身の素晴らしさは勝手気まま、つまり自由であることだと感じている。
そして、それを満喫することが大切であると僕は思っている。
独身者であれば大方はこのような感覚ではないだろうかと思う。
なので、独身論などと偉そうなタイトルを付けてしまったが、内容は大して新鮮味のないものになってしまいそうで既に頭が重い。
独身だとプライベートな時間では他人に干渉されることがほとんどない。
時間もお金も自由に使える。
サーフィン、登山、ランニング、酒が趣味なので、趣味が共通している人、つまり友達と過ごす時間は楽しいし、一人でも楽しめる。
仕事も大好きなので思う存分やる。
仕事が終われば一人で飲みに行く。
ぼくは一人だと座って飲めないタチなので、行くのはもっぱら立ち飲み屋だ。
フラッと入って、びんビールとつまみを2,3品、だいたい30分くらいでサクッと出る。
まったくの自由行動である。
行きつけは赤羽と上野だ。
もう何年もこんな具合なので、店の人には顔を覚えられている。
客としては嬉しさこの上ない。
酒について書けば、まだまだ尽きることはないが、このあたりで止めておく。
ちなみに酒場放浪記という番組が大好きだ。
物事には必ず2面性がある。
ぼくの仕事の東洋医学でも陰と陽という両極の考え方がある。
今まで自由について書いてきたが、自由があれば不自由というのがある。
しかし、ぼくは性分なのか環境なのか、あまり不自由を感じたことがない。
あえて言うならば、自由であるために責任を負っているというところに不自由さがあるのかもしれない。
しかし、こういった事は日々感じていることはなく、同じような日々の繰り返しではあるのだが、自由であり平穏無事に過ごしているので幸せだ。
しかし、問題がない訳ではない。
好きな人のいない人生ほどつまらない人生はなく、話し相手が傍にいない人生ほど寂しい人生はない、と思っている。
しかし、これは独身の問題ではなく、そう思える人がいるかどうかの問題だ。
そういう存在の人が異性である必要はないのだが、ここでは異性、つまりぼくにとっては女性ということで話を進めてみようと思う。
気持ち的に結論から言いたいので、結論から言うと、ぼくの人生はつまらなく寂しい人生ということになる。
好きな女性、傍にいてくれる女性がいない。
もう何年もいない。
妙なイメージを持たれるとイヤなので断っておくが、男女問わず友達には恵まれていると自分では思っている。
こんな歳まで勝手気まま、自由に生きてきた結果、自分では中々気付かないと思うのだが、相当にわがままなのだろうと思う。
こんな自分にそういう存在の女性が現れるのは万に一つの可能性なのだと思う。
しかし、万に一つでも可能性は可能性だ。
そして、その万に一つのことが起こった。
驚くほどの速さで起こった。
でも、それが今の自分に合ったスピードなのだろう。