略歴
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1970 埼玉県浦和市(現 さいたま市)生まれ
1988 千葉県立船橋東高等学校卒業
1992 東京理科大学理学部応用物理学科卒業
2006 日本鍼灸理療専門学校本科卒業
2008 日本カウンセラー学院専修科卒業
1992 大学卒業後、日本DEC、コンパックコンピュータ株式会社にてカスタマーサービスエンジニアを約8年半経験。
2000 その後、約1年半、バリ島とオーストラリアでサーフィン三昧とアルバイトの今では考えられないような生活。
2002 帰国後、墨田区の文花整骨院にて現在の仕事の修行に入る。
2006 3年半の修行を経て独立、墨田区にて出張専門の鍼灸指圧業を起業。
2008 起業後2年半を迎えた2008年10月に赤羽グリーン治療院を開院。
2009 現在に至る。( やたら〇年半というのが多いことに今気づく )
ごあいさつ------------------------------------------------------------------
『 なんで、そういう仕事してるの? 』
と、よく聞かれることがあります。
『 仕事には呼ばれるので 』
と、答えます。
今、私は、こころとからだの両面から健康をサポートする仕事に呼ばれています。
自分自身想像もつかなかった大変身です。
それでは、大変身の物語の始まりです。
◆ 勉強嫌いが勉強好きへ ◆
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僕は、小さい頃からブロックとか粘土とかで何か作ることが大好きでした。
好きこそものの上手なれ、という言葉もあるように学校では小さい頃から図工の成績は良かったです。
それに反して、いわゆる5科目というものの成績は・・・母親を不幸のどん底に突き落としました。
親不孝者の土田少年はそんなことはお構いなしにすくすくと大きくなっていきました。
やがて、土田少年にも転換期が訪れます。
なんと、いつも一緒に遊んでいた友達たちがみんな、いわゆる5科目というものの成績がめちゃくちゃ良いということを知ってしまったのです。
なんで、いつも一緒に遊んでいるにこんなにも違うのだろう・・・
よくよく聞いてみたら、みんな家で勉強しているというのです。
それにはホント驚きました。
母親は毎日のように勉強しろと口うるさいのですが、僕は勉強なんかしないのが当たり前だと思っていたのです。
しかし、なんで僕だけ出来ないのだろう、と悔しかったのを覚えています。
そこで、じゃあ僕も勉強というものをやってみるか、という気になったのです。
今になって思うと、劣等感を打ち消すために勉強したのではないかと思います。
いざ勉強をやってみると、今まであんなにうるさかった母親が急に黙りだしたのです。
さらに良かったことは、次第に成績も上がりだしたのです。
一石二鳥とはこのことだと実感できました。
そこから、僕は勉強というものが好きになりました。
あの時あの友達たちがいなかったら土田少年はどうなっていたのだろうと思います。
◆ 堕落の始まり ◆
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やはり、好きこそものの上手なれ、で勉強が好きになると成績も良くなるので、
おかげさまで、船橋東高校、東京理科大学に合格するという大変な事態に発展したのです。
しかし、もっと大変だったのが、合格するとその後はどうでもよくなってしまうという怠けっぷりだったのです。
僕は大学に入るとすぐに勉強がイヤになりました。
単純な理由です。
難しすぎて全然分からなかったからです。
しかし要領だけは覚えたので何とか卒業できたのです。
この4年間で、要領さえ良ければいいという、とんでもない人間が出来上がりました。
そんな僕が就職した会社は、外資系のコンピュータ会社です。
ゆる〜い感じの、ぬるま湯に浸かっているような、とってもいい会社でした。
僕は要領さえよければいいという人間になっていたので、仕事はそれなりに出来ていました。
しかし、それは大きな誤りで、先輩、後輩、上司に支えられてやってこれていたのです。
なぜなら、この頃の僕は、呑んで愚痴って発散させていたからです。
そんな甘ったれ会社員の思い描いた夢は、独立です。
もう救いようがありません。
しかし、このどうしようもない人間のしょうもない夢が、後々・・・
◆ 人生が変わる日 ◆
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30歳で会社を去りました。
この時点では、別のことで独立を考えていました。
行先はインドネシアのバリ島です。 ( 独立とは関係ありません )
やることはサーフィンです。
毎日が天国のようでした。
こんな生活を3か月続けました。
帰国して今度は1年間オーストラリアで過ごしました。
やることはサーフィンです。
今度はアルバイトもしました。
日本人の経営するレストランや、ハム工場で働きました。
ハム工場ではブルーカラーになって外人と一緒に働き、またとない経験をしました。
日本人もいましたが、彼らは皆ホワイトカラーです。
ブルーカラーの日本人は僕だけです。
この頃は英語もかなりできるようになっていました。
今ではすっかりちんぷんかんぷんです。
山あり谷ありのオーストラリア生活でしたが、帰国の日が迫ってきました。
僕はその日が近づくにつれ暗くなっていきました。
それは、とある事情で会社員として就職先を探さねばならなくなったからです。
帰国後、就職活動していました。
なにか釈然としません。
モヤモヤしっぱなしです。
独立を決めて会社を辞めた人間が、再就職しようとしているのです。
おかしな話です。
しかし、そんな状態ではありましたが、医療関連の会社から内定をいただきました。
釈然としないながらも、再就職するなら医療関連と決めていたのです。
この頃には、鍼灸師っていう仕事はどうなのかな?と思いもありました。
そして、内定後の呼び出しで数日後の○月○日に来て下さいと言われていたのですが、なんと事もあろうか、当日の朝に辞退の電話を入れました。
この日を境に私の人生は変わりました。
なぜ、辞退したのかと言いますと、独立の夢をあきらめられなかったからです。
ここで会社員になってしまったら、独立の夢をあきらめなければならないと思ったからです。
そして、辞退をさらに後押した出来事が僕に起こっていたのです。
詳しく言う事は出来ませんが、それは、病気で苦しんでいる人を助けたいと思わせるような出来事です。
私は、病気で苦しんでいる人を助ける、という志を立てました。
と同時に、鍼灸師になろうと決めました。
◆ 人間修行 ◆
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しかし、今までちょっと勉強が出来たくらいで、いい気になって、要領だけはおさえて、
適当にやってきた人間に本当に出来るんだろうかという思いもありました。
とにかく、業界に入って自分に出来るのか肌で感じなければならないと思い、墨田区の文花整骨院で見習いを始めました。
自分にもできるかもしれないという感触を得ることができたのは、意外と早かったと思います。
しかし、そう感じることができたのは、面倒を見てくれた院長やスタッフの先生や通ってくる患者さんのおかげだと思っています。
半年後には、鍼灸の学校である日本鍼灸理療専門学校に通い始め、朝〜夕方までは整骨院、夜は学校という生活が3年続きました。
私はこの間に、自分自身が変わったのだと思っています。
人間の暖かみというか真心というか思いやる気持ちというか、そういう大切なものを改めて実感しました。
◆ まだまだこれから ◆
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そして、2006年の春、僕は無事卒業し資格も取得し、なんとこの時点で早々と独立してしまいました。
お灸・はり・指圧の出張業を始めたのです。
念願の夢を果たしたわけですが、実はここからが本当のスタートだったのです。
収入がゼロの日が続きます。
独立というのは聞こえはいいけど、実は収入が一度ゼロになるということを意味するのだと思いました。
収入がゼロになるということは、どういうことかと言いますと、この時点で不幸感が湧いてきます。
今が不幸感で満たされると、将来どうなるんだろうと、大概は失敗をイメージします。
将来に失敗をイメージすると、今が不安になります。
今、不安を感じている人は気をつけないといけません。
なぜなら、将来に失敗をイメージしているからです。
そんなことはない、と言い張る人は、無意識の中にそれを作っている可能性があります。
で、将来に失敗をイメージしていたら、それはほぼ100%その通りになります。
つまり、失敗します。
イメージとはそういうものです。
私は、その不安は、『 どうしよう、どうしよう、失敗したらどうしよう 』ということだと分かりました。
そこで、『 失敗しないためにはどうしよう、成功するにはどうしよう 』に『 どうしよう 』を変えてみました。
すると、不安はなくなり、不幸感もどっかに行ってしまいました。
元気が出てくると変わってきます。
この変化が面白いところです。
そして周りの助けもあって、なんとか収入も安定してきました。
技術の未熟さをカバーするのに、週1で2年間、浦和の安藤鍼灸院に研修に通いました。
私の鍼灸治療のベースはこの研修で作りました。
しかしながら、同時に疑問も湧きました。
この疑問を解消するのに骨格矯正である整体の勉強をしようと思い、日本指圧師会で2年間の研修を受けました。
ここで学んだ骨格矯正が私の治療の基本になっています。
そして現在も毎月の研修は続けています。
また、身体のことだけ分かっても足りない、心についても勉強しなければと思い、日本カウンセラー学院で1年間勉強しました。
そして、さらなる飛躍をめざして、2008年の秋、この赤羽グリーン治療院を開院しました。
私は、80歳までは、最低でもあと40年、仕事をしていこうと思っています。
それには、まず自分が健康でいなければと思っています。
80歳まで仕事をしていくためには、今どうあればいいのだろうかとよく考えます。
もちろん考えているだけではなく実践もしています。
自分のこころとからだに注意を向けています。
しかし、自分をコントロールすることは自分だけでは出来ないだろうと思っています。
必ず他人の助けが必要だと思っています。
皆さんも同じだろうと思います。
私は、こころとからだの両面から健康をサポートする仕事をしています。
冒頭で、仕事には呼ばれる、と書きました。
呼ばれたからには一所懸命に仕事をしていく決意です。
私自身まだまだ未熟者ではありますが、少しでも皆様のお役に立てればと思っています。
そして、思いやりの気持ちを忘れずに未来に向かっていく所存であります。
2009年 夏
院長 土田 宗臣